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東京地方裁判所八王子支部 昭和57年(ワ)64号 判決

主文

一  被告株式会社東芝は、原告に対し、五万五四九〇円及び内金四万五一三五円に対する昭和五六年八月二六日から、内金一万〇三五五円に対する同年一二月五日から各支払い済みまで年六分の割合による金員を支払え。

二  被告らは各自、原告に対し一五万円及びこれに対する被告株式会社東芝は昭和五七年一月三〇日から、被告天野博司は同月三一日から各支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告らの、その余を原告の負担とする。

五  この判決は第一、第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一項同旨

2  被告らは各自、原告に対し、五〇〇万円及びこれに対する被告株式会社東芝は昭和五七年一月三〇日から、被告天野博司は同月三一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は、昭和五〇年四月、被告株式会社東芝(以下「被告東芝」という。)に入社し、東京都府中市東芝町一番地所在の同社府中工場勤務となり、昭和五一年三月同工場内職業訓練校で板金課程を終了し、同年四月から同工場材料加工部製缶課に配属された。

被告東芝は、電気機械器具製造等を目的とする株式会社であり、被告天野博司(以下「被告天野」という。)は、被告東芝府中工場材料加工部製缶課第四ラインの製造長として、原告の上司の地位にあった。

2  被告天野による違法行為

(一) 原告は、昭和五六年四月九日、同月五日発行の「働く者の新聞」(タイトルは「春闘を働く者の手に!今や八%の攻防、これで生活を守れるのか」というもの)と題するビラを封書にいれて職場の一名の労働者に交付したところ、翌一〇日午前九時三〇分、被告天野は就労中の原告を呼び出し、同日午前一一時までの間「きのうのビラは何だ。始末書を書け。原文は俺が書く。おまえはその通り書いてはんこをおすんだ。」等と述べて上司である被告天野の許可を得ないで原告がビラを配布したことを非難したうえ、「私は就業規則と労働協約を破り、上司の許可を得ないでビラをまいたことを十分に反省しております。今後はこのようなことのないように注意いたします。万一、ふたたびこのようなことをした場合には、どのような処分をされても異議申し立てはいたしません。上記誓います。」との反省書の文案を自ら作成して、そのとおり書くよう強要したが原告は「一日考えさせて下さい。」と言って断った。そして、原告は、右文案を書き写してポケットに入れたところ、被告天野は無理やり原告が書き写した文案を古沢作業長と共に取り上げ、「おまえ、こんなことをして何になると思うのだ。くやしかったらもう一度まいてみろ。何が『労働組合を労働者の手に』だ。笑わせるな。」等と原告に対し罵詈雑言をあびせた。本件ビラ配布行為の後、被告天野は些細なことを取り上げて原告に対し反省書、始末書等の提出を強要するようになった。

(二) 府中工場においては、職場慣行として、エアーグラインダーや電気熔接機等の共用機械は、全員が所定終業時刻に勤務を終えるのでない限り、終業時刻に勤務を終える者は、残業で使用する者の手間を省くため、すぐに使用できる状態のまま帰ることになっていた。また、作業日報については、必ずしも当日勤務終了前に記載するものとは限らず、仕事上も当日記載しなければ支障を生ずるというものではないことから、翌日記載することもあった。従って、これらの取り扱いについて上司から反省書、始末書の提出を要求されることはなかった。ところが、原告が同年五月六日作業日報の記載をせず、エアーグラインダーや電気熔接機をしまわず、右熔接機の電源スイッチのみを切って帰宅したところ、翌七日、被告天野は右の点をとらえて、同日午前八時五分から一五分頃まで及び午前九時三〇分から一〇時三〇分頃までにわたり、「書きたくなるまでそこに座っていろ。」等と述べて反省書の作成提出を強要したため、原告はついに、「深く反省すると共に今後このようなことがあった場合にはどのような処置を受けても異議はありません。」との文言を含む反省書二通を作成提出した。

(三) 同年五月一一日以降現在に至るまで、原告の所属する製缶課第四ラインの労働者が原告に対し日常の挨拶もしないという状態が続いているが、これは同月九日原告が年次有給休暇をとった際、被告天野が右第四ラインの労働者に指示したためである。

(四) 同年五月一一日、被告天野は、原告が午後三時頃スポット熔接機を使用した際、チェックシートの記載をしなかったことについて、同日午後三時五〇分頃、原告を呼びつけ、誓約書の作成を要求した。これに対して、原告は、被告天野に、右スポット熔接機を使用するのは初めてであり、前の週の朝礼において、古沢作業長が、チェックシートの記載を徹底するよう指示した際、被告天野に呼ばれていてその場におらず、右指示を聞いていなかった旨説明したが、被告天野はこれを聞き入れず、さらに、「おまえには安心して任せることはできない。誓約書を書け。『私のやった仕事で、もしも事故が起こった場合は、私が全責任を負います。』というやつを。そうすれば俺も安心しておまえに仕事を任せることができる。おまえが書くまで仕事はさせない。」等と言って、同日午後五時まで誓約書の作成を要求したが、原告は同日はこれを拒んだ。しかし、被告天野は、翌一二日午前中の三〇分間、原告に対し、「とにかく一筆入れてもらわないと、おれは納得できない。」等と述べて反省書の作成を要求したので、原告はついに「五月一一日三時ころ、私はスポット熔接をするに際して、チェックシートをつけなかったことを十分に反省いたします(指示命令に従いませんでした)。今後は必ずチェックシートをつけるようにいたします。」との製缶課課長宛の反省書を作成提出した。

(五) 原告は、同月一二日、スポット熔接機を使用した後、同機の後方にある三本のバルブのうち中央のバルブのみを閉めておいたところ、スポット熔接機が過熱して故障した。これは両端のバルブ二本には「さわるな」と書いた札がついており、中央のバルブに何の表示もしていないことによるものであり、中央のバルブに表示をしなかったことについて管理責任者の責任を問うべき事柄である。被告天野は、これについて、同月一四日、原告に対し、午前八時四五分から午前九時五分頃まで及び午後二時五〇分から午後四時まで始末書ないし反省書の作成を求めた。そこで、原告が、「五月一二日、私はスポット熔接機を故障させてしまいました。今後はこのようなことのないよう十分注意いたします。」との反省書を作成したところ、被告天野はさらに、「馬鹿野郎。こんなもので済むと思っているのか。『なにとぞ寛大なるご処置をお願いいたします。』という但書をつけろ。」等と執拗に原告に要求したため、原告は右文章に続けて、「つきましては、何とぞ、おんびんに済ませてくださいますようお願いいたします。」と記載した。

(六) ボール盤のドリルで鉄板に穴をあける作業のときは途中で皿ネジを穴に入れて穴あき具合を確認するのであるが、同月一八日原告が右作業中、穴あき具合確認のため皿ネジを出し入れした際、ドリルの下に手が入ってしまった。被告天野は、これを不安全行為だとして、同月二二日午前九時四五分頃から午前一〇時五分頃までの間原告に対し反省書を作成するよう強要したので、原告は、「五月一八日私はボール盤作業において不安全行為をしてしまいました。今後はこのようなことのないように注意いたします。」との内容の反省書を作成したところ、さらに被告天野は、「おまえは前にも注意されているんだ。作業長の指示命令に従わなかったんだ。『以前にも注意されていたにもかかわらず』という文を入れろ。」と要求したので、原告は文末に「(以前にも注意されていたにもかかわらず再度)」との文言を付加して、これを被告天野に提出した。

(七) 原告は、同年四月九日働く者の新聞の配布が発覚して以来、便所に行く際にも他の作業者が後についてくるなどして監視されていたが、同年五月二五日には、被告天野から製缶課北側にある便所ではなく南側の便所を使用するよう指示された。

(八) 被告東芝府中工場においては、一服という名目で、午前、午後の各一回、各五分間程度、作業現場の片隅に置かれた灰皿周辺の休憩場所で交替で休憩することが職場慣行となっていた。原告は同年六月一〇日午後の一服の際、一、二分間目をつぶっていたところ、翌一一日、被告天野はこれを居眠りをしていたとして、午後〇時一〇分から午後一時までの昼休みを除き、午前八時三〇分頃から午後一時二〇分頃までの間原告に対し反省書の作成を求めたので、原告は、「六月一〇日、午後の一服の時にいねむりをしてしまいました。今後はこのようなことのないように注意いたします。」との反省書を作成した。その際原告は被告天野に対し、「仕事にさしさわりがあったわけでもないし、それで仕事が遅れたわけでもありません。一服が終わってすぐ仕事にもつきました。」と反論したところ、これをとらえて被告天野は、「するとおまえは仕事中には居眠りをしてもいいというのか。『私は居眠りをしてもいいと思います。』と言ったと付け加えろ。」と強要したので、原告は結局前記文章に続けて、「私は製造長に一一日に注意を受けました。その時、私は、いねむりをしてもいいと思いますと答えました。天野製造長は『おれはいねむりは許せない。』といいました。『私にコピーを一部くれますか。』と私はいいました。」との文言を付加し、これを被告天野に提出した。

(九) 前記の一服のための休憩場所には椅子が置いてあったが、六月一五日、被告天野は現場の第四ラインの労働者に対し、一服は立ってするよう指示し、六月二二日椅子を撤去した。原告は同日午前の一服の際、バンコ(長さ約五〇センチメートルの角材のこと)に座って休憩していたところ、被告天野は原告に対し、「誰がそんな所に座っていいと言った。立って一服しろ。今まではな、職場慣行として親心で目をつむってきたんだ。だいたいどこの職場に一服のための椅子を置いてあると思うんだ。わからないのなら、そこにある椅子を持っていって一日中座っていろ。仕事はしなくていい。」等と約三〇分間にわたり罵倒した。翌日午前一〇時一〇分頃、原告が一服の際またバンコの上に座っていたところ、被告天野は原告を呼び付けて、「誰があんな物の上に座って休めと言った。立って休めと言ったろうが、きのう。」と同日午前一一時頃まで原告を罵倒した。さらに原告は同日午後の一服の際にもバンコに座っていたところ、古沢作業長がこれを咎めたので、原告が、「椅子を持ってきてくれればバンコに座らなくても済みます。先週までのように、ここに椅子を置いて下さい。」と反論すると、古沢作業長が被告天野に連絡した。被告天野は原告に対し、「俺はな、おまえの一服するのがあたりまえのことだというその考え方が気にいらないんだ。おまえが会社に入った頃からなんだろうが、そんな習慣は会社にとっては好ましくはないんだ。そういう悪い習慣はやめねばならないんだ。一〇時と三時に一服することは当たり前ということは一服をすることは権利だということになるだろうが。親心で認めてきたものを、権利だなんて、とんでもない奴だよ。」等と言い、信念書の作成を求めたため、原告は六月二四日ないし二五日に、「私は一〇時と三時に一服するのは当たり前だと思います。」との内容の信念書を作成して被告天野に提出した。なお、撤去された椅子は一週間後には元に戻された。

(一〇) 原告は、六月二九日、精神的疲労のため年次有給休暇をとり、翌日出勤したところ、午前一〇時頃被告天野に呼ばれ、原告が六月二三日の作業日報に、被告天野から罵倒されていた時間も作業時間に加えて記載したことについて、「作業日報には仕事をした時間だけを書けと言ってあったろうが。これはCD(コストダウン)のために使うんだ。おまえのは全然使えないじゃないか。どうして俺と面接した時間を含めてあるんだ。」と言われた上、反省書の作成を強要されたため、「私は六月二三日の作業日報を正しく書きませんでした。今後はこのようなことのないように注意致します。」との内容の反省書を作成したが、さらに被告天野から、「これは作業長の指示命令違反なのだから、私は作業長の指示命令に従いませんでした。ということを付け加えろ。」と言われ、午後〇時五分頃、やむなく前記文言の後に、「(作業長の指示命令に従いませんでした。)」と付加した反省書を被告天野に提出した。

(一一) 年次有給休暇は従来から当日の申し入れで取得することができ、また、府中工場は外部から電話した場合、交換台から直接現場の製造長にはつながらないため、電話で休暇を申し出る際は製缶課事務所の書記を呼び出し、書記に製造長を呼んできてもらうか伝言してもらうかすることになっていた。原告は、六月二九日午前八時二〇分頃、同日年次有給休暇を取るため、府中工場製缶課事務所に電話をしたところ、偶然右電話に被告天野が出たため、年次有給休暇を取りたい旨伝え天野からその承諾を得た。ところが、翌三〇日午後四時頃、被告天野は、原告に対し、「きのう、おまえは古沢にも俺にも電話をしてこなかった。書記に電話してそれですむと思っているのか。」等と怒鳴り、原告が交換台から直接現場には電話がつながらないことや、実際には被告天野が原告からの電話に出て直接原告と話したことを述べて反論すると、「きのうはたまたま事務所にいて書記のかわりに電話をきいただけだ。俺も古沢もおまえからの電話は受け取っていない。」と強弁して、終業時刻直前の午後四時五五分頃まで始末書の作成を強要した。

原告は精神的に追いつめられた状態となり、翌日の七月一日から三日まで年次有給休暇を取ったが、七月三日の午後一時半ころ、被告天野は原告のアパートにやってきて約一時間、「会社に出てきたらじっくり話がある。」などと述べて原告を脅した。原告は七月四日、五日が土、日にあたり府中工場の休日であったため出勤せず、翌六日出勤すると、被告天野は六月二九日の電話のことを再度持ち出して、午前八時五五分から午前一一時二五分まで、午後二時三〇分から午後三時まで及び午後四時一〇分から二〇分までの間、「おまえの上司は書記か。俺は、おまえのその書記に連絡してすまそうとしたその考え方が気にいらないのだ。始末書を書きたくなければ、私は天野製造長を上司とは認めませんというやつを書け。」等と執拗に述べて始末書の作成を強要した。翌七日も被告天野は原告に対し、午前九時二〇分から午後〇時一〇分頃まで、午後一時から一時二五分頃まで及び午後二時四五分から午後五時までの間、「事後休暇届けを出すのに電話で書記に連絡することは間違っている。まず上司の製造長か作業長を呼ぶべきだ。」等と述べて始末書の作成を強要したが、原告はこれに対し、「上司のいる現場に交換台から直通になっていないので、やむなく書記のところへ電話を入れて呼んでもらっています。いけないというのでしたら、次からは改めますから許して下さい。始末書は書きたくありません。」と反論し、始末書は作成しなかった。しかし、翌八日も被告天野は原告に対し、午前八時二〇分から午後〇時一〇分頃まで、午後一時から一時四五分頃まで、前記の電話のことに加え、七月七日午後三時五〇分頃原告が被告天野との面談中目を閉じたことを居眠りをしたものと決め付けてこれについても始末書を作成するよう要求した。原告は連日の被告天野の要求に、やむなく、「六月二九日私は頭痛のため休暇を取りましたが、その時私は書記に連絡し、上長に連絡をいたしませんでした。私はこのことを深く反省すると共に、今後は電話連絡をする際は直接、上長にするようにいたします。」という内容のものと、「私は過去に休憩中に居眠りをして反省書を書きましたが、七月七日午後三時五〇分頃、製造長との口論中に再び居眠りをしてしまいました。今後はこのようなことのないように注意いたします。」との内容の反省書二通を作成した。そして、原告はこれをコピーして原告に交付するよう要求した。これに対して、被告天野は前者については、「六月二九日私は頭痛のため休暇をとりましたが、その時、私は上長に連絡をいたしませんでした。また、このことを、六月三〇日に組合に相談に行ったところ、高橋書記長はそれは上野と上司の問題であるから相談にはのれないと言われました。そこで、私は、天野製造長を上司と認め、ここに深く反省するとともに始末書を書きます。組合相談事項とは、上司に始末書を書けと言われたので、相談に行きました。」との内容の始末書とすること、後者については、「私は過去に仕事中に居眠りをし反省書を書きましたが、七月七日三時五〇分頃製造長との話し合い中に二回目の居眠りをしてしまいました。今後このようなことが万一ありました場合には、いかなる処分をもお受けいたします。」との内容の始末書とすることを要求し、コピーについては、始末書提出との交換条件であるというなら渡すわけにはいかないが、原告が頭を下げて「お願いいたします。」と言うのなら考えてもよいと返答した。そこで、原告は前者については被告天野の要求した内容の、後者については、「私は過去に仕事中に居眠りをし反省をいたしましたが、七月七日二回目の居眠りを製造長との話し合い中にしてしまいました。今後はこのようなことのないように注意いたします。万が一、このようなことがありましたならば、天野製造長の処置におまかせいたします。」との内容の始末書(反省書)と題する書面を作成提出したが、被告天野はコピーについて、約束していないと述べてこれを交付しなかった。

(一二) 終業時刻の午後五時で勤務を終える場合、その約一〇分前から片付け始めることはどこの職場でも平素から行われており、これについて注意がなされることはなかったのに、同月九日午前八時一五分頃から二〇分頃までの間、被告天野は、前日原告が午後五時一〇分前から片付けを始めたことを咎め、原告がこれについて、作業日報の記入、道具の片付け、掃除等に時間が必要であったことを述べて反論すると、「仕事をしたくないならはっきり言え。そうすればこっちもすっきりさせてやる。」と原告を罵倒した。

また、同日、被告天野は、通常製缶課では製造後、現物と図面を照合し、寸法があっていれば図面の数字を青色のペンで塗ることになっていたのに原告が同年六月一五日に数字を青色のペンで塗るのを忘れたことについて、午前八時三五分頃原告に対し、原告の謝罪も聞かず始末書を作成するよう要求した。そこで、原告は、「私は六月一五日の仕事に際して、図面寸法の下に青のペンで色を塗ることを忘れてしまいました。今後は、このようなことのないように注意いたします(指示命令違反でした。)」との反省書を作成提出した。その後、被告天野はさらに続けて、「きのうの一〇分前に仕事を終えた件についてはどうしてくれるんだ。きのうの日報をもってこい。日報を書くのにどれだけ時間がかかるのか、計ってやる。」と言って、原告が前日書いた作業日報を書き写して時間を計り、「四五秒だ。まあ、一分として残りの九分は何をしていた。きのう、おまえがやった後片付けをすべて再現してみろ。俺が計ってやる。」と、原告を原告の使用している作業台に連れていって、後片付けを再度やって見せるよう詰め寄った。原告は、このような状況にいたたまれず、同日午前九時一五分頃、弁護士に電話しようと考えて第三食堂の電話ボックスに向かったところ、被告天野、古沢作業長、山本作業長及び荻野が「職場離脱だぞ。」と言いながら原告の後を追ってきた。原告は被告天野に対し同日は休暇を取りたい旨述べたが、被告天野は課長の許可を得るよう要求し、さらに古沢らに原告をとりおさえるよう指示し、被告天野自身も原告の背後から原告の両腕の内側を手で掴んで強くひねるなどした。原告は隙をみて逃げ出したが、被告天野は古沢に原告を会社から出さないよう勤労課に電話するよう指示し、右四名中二名が原告を連れ戻そうとしたが、原告がその場に積んであった鉄板にしがみついて離れなかったため、あきらめて戻って行った。原告はその後午前一〇時頃から府中工場内を駆け廻った末、午前一〇時三〇分頃製缶課二階にある更衣室に戻り、着替えを持つと同工場北門に向かったが、同所の警備員に呼び止められ、さらに、同所にやってきた山本作業長から、休暇について許可がなく、課長の許可を得るよう言われたことから、再度製缶課事務所に戻った。そして製缶課長伊藤周次郎に休暇の許可を求めているうち、原告にめまいの外、手足が痺れるなどの症状が現れたため、同課長はようやく外出を許可した。原告は、午前一一時ころ府中工場付近の医院にかけこみ、同所から救急車で東京都立府中病院に運ばれ、同病院精神科の医師から一〇日間の休養加療を要する心因反応との診断を受けた。更に翌日、国分寺診療所において右上腕内側部に約六・八センチメートル×七・〇センチメートルの皮下出血を認めるとの診断を受けた。また、原告は同月一六日、府中病院において、心因反応によりさらに一〇日間の休養加療を要するとの診断を受け、結局、同月二五日まで欠勤せざるを得なかった。

3  未払賃金の請求

(一) 原告の賃金及びその支払方法

原告の昭和五六年八月当時の月額基準賃金は本給四万五三六〇円、仕事給四万三九〇〇円、能力加給二万四九四八円、住宅手当一〇〇〇円の合計一一万五二〇八円であり、これに加えて高熱・危険・有害・悪臭・振動・騒音等の伴う作業環境における作業に従事する者その他に支給される特殊作業加給二級に該当するものとして、実労働時間八時間につき二七〇円が支給されていた。賃金の締め切り期間は、当月一日から末日まで(特殊作業加給については前月一日から末日まで)とされており、支払日は毎月二五日である。

従って、原告の昭和五六年八月の賃金は、同年七月の所定勤務日数が二二日であり、この出勤日に所定労働時間八時間実働した場合の特殊作業加給は五九四〇円となるから、これと基準賃金の合計一二万一一四八円である。

(二) 原告の賃金の未払い分

被告東芝は、原告が昭和五六年七月九日早退したため勤務時間中五時間就労しなかったこと、同年七月一〇日から同月二五日までの出勤日一二日間欠勤したことを理由として、原告の同年八月分の賃金のうち、基準賃金四万一七二七円、特殊作業加給三四〇八円の合計四万五一三五円を支給しなかった。更に、被告東芝は、昭和五六年一二月四日に支給された昭和五六年度年末一時金においても、前記一二日間の欠勤を理由として一万〇三五五円を減額した。

(三) しかしながら原告の昭和五六年七月九日の早退及び同月一〇日以降の欠勤は、被告天野が、その上司である地位を濫用して同年四月一〇日以降、原告の勤務態度等の些細な事柄を取り上げ、反省書、始末書の作成提出を長時間にわたり威圧して強要するなど前記のとおりいやがらせを繰り返し、同年七月九日には被告天野のほか、古沢作業長らも加わって原告の身体を拘束する等の暴力行為に及び、原告に両上腕内側皮下出血の傷害を負わせるなどしたことにより、甚しい精神的衝撃を受け、心因反応と診断されて休養加療を余儀なくされたためである。従って、原告の前記早退及び欠勤は、被告東芝の責めに帰すべき事由によるものであるから、原告は右早退による不就労時及び欠勤時の労務提供義務の反対給付たる賃金請求権を失わない。

4  被告らの不法行為責任

(一) 被告天野は前記のとおり原告に対し三箇月間にわたり執拗に反省書等の作成提出を強要し、昭和五六年七月九日には暴行を加えるなど常軌を逸した言動により原告の人格権を侵害したのであるから、不法行為者として、右言動により原告が被った損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告天野の前記行為は、被告東芝の業務執行につきなされたものであるから、被告東芝は被告天野の使用者として、被告天野の行為により原告が被った損害を賠償すべき義務がある。

なお、被告天野が原告に対し、前記のようないやがらせをするに至った背景には以下のような事情がある。昭和五四年四月に行われた東京都府中市市議会議員選挙の際、被告東芝府中工場においては立候補していた被告東芝の労働組合執行委員及び被告東芝の従業員のため企業ぐるみの選挙運動を行ったが、このような状態を憂慮し、オイルショック後の合理化による人員削減によって労働強化が進行している労働現場の改善を訴えるため、一部の従業員が「労働者の声」と題するビラを配布するようになった。これに対し、被告東芝は、ビラの配布時にはビラを受け取らないように従業員に指示したほか、右のビラを配布した従業員に対しては、他の従業員に指示して必要最小限の会話以外はしないようにさせ、社内の行事について連絡をしなくなり、昇給等の人事考課においてはマイナス査定をするなどの圧力を加えるようになった。原告は右のビラを読んでこれに共鳴し、以後、ビラの作成に参加するようになったものである(「働く者の新聞」は右の「労働者の声」を改題したもの)が、原告がこれに参加していることが被告天野の知るところとなった後、同被告の原告に対するいやがらせが始まっており、したがって、原告に対する被告天野のいやがらせは、被告天野の個人的行為ではなく、会社に対する批判を嫌悪し、これを抑圧しようとする被告東芝の体質に基づくもので、ビラを配布した従業員に対して加えられた一連のいやがらせ行為の一端である。

5  損害

原告は、被告天野の前記の言動により三箇月間にわたり人格権を侵害され、右上腕内側皮下出血の傷害を負ったほか、心因反応により欠勤を余儀なくされるなどの精神的損害を受けた。右精神的損害を慰謝するには五〇〇万円をもってするのが相当である。

6  結び

よって原告は被告東芝に対し、労働契約に基づく賃金請求権に基づき五万五四九〇円及び内四万五一三五円に対する昭和五六年八月分の賃金の支払い日の翌日である昭和五六年八月二六日以降支払済みまで、内一万〇三五五円に対する昭和五六年年末一時金の支払い日の翌日である同年一二月五日以降支払済みまで、いずれも商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の、被告東芝及び被告天野に対し、連帯して、不法行為による損害賠償請求権に基づき五〇〇万円及び本訴状送達の日の翌日である被告東芝については昭和五七年一月三〇日以降、被告天野については同月三一日以降支払済みまでいずれも民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者)記載の事実は認める。

2  請求原因2(被告天野による違法行為)記載の事実について

(一) 同(一)記載の事実のうち、原告が昭和五六年四月一〇日、原告主張のビラを封書に入れて職場の同僚に交付したこと、これを知った被告天野が翌一〇日原告に対し注意を与え、始末書ないし反省書の提出を求めたこと(ただし、時間は午前一〇時から午前一〇時五〇分頃までである。)、被告天野が反省書の文案を書いて原告に示したこと、原告が反省書の提出を一日考えさせて下さいと述べたこと、原告が書き写した文案をポケットに入れたので被告天野がこれを取り上げたことの各事実は認め、その余の事実は否認する。被告天野は原告に対し、就業時間中の無許可ビラ配布は就業規則、労働協約に反することを指摘して注意をしたものである。一般に、従業員に職場規律を乱す行為や不安全行為があれば、その上司がこれを叱責しまたは注意を与え、さらには反省書等の提出を求めるのは当然のことであり、被告天野が特に原告のビラ配布行為を知った後、原告に対し、些細なことで叱責したり、反省書等の提出を求めるようになったとの事実はない。被告天野は本件以前の同年四月三日にも原告から反省書の提出を受けている。すなわち、原告は同月三日、同課の斎と共にフレームに鉄板のカバーを熔接する作業をしている際、斎からハンドバイスを使用して鉄板を固定して熔接作業をするよう指示されたにも拘わらず、左手で鉄板を押えて熔接したため、熔接の際の火花が手袋のなかに入り火傷を負ったが、このことについて被告天野から叱責され、反省書を作成提出している。

(二) 同(二)記載の事実のうち、原告が昭和五六年五月六日、エアーグラインダー及び電気熔接機を所定の場所に収納せず、作業日報の記載をしないまま帰宅したこと、翌七日午前八時過ぎから約一〇分間エアーグラインダー等を収納しなかったことについて注意し、反省書を提出させたこと、同日午前九時三〇分頃から作業日報の記載をしなかったことについて注意し、反省書を提出させたこと(なお時間は約三〇分間程度である。)、二通の反省書が原告主張の内容であることの各事実は認め、その余の事実は否認する。被告東芝府中工場においては、共同作業後一方が定時に退社し、他方が残業するという場合でもないかぎり、エアーグラインダーや電気熔接機を引き続き他の者が使用するということはない。原告は単独作業をしていたのであるから当然退社時には右機械を収納すべきである。さらに原告は電源を入れたまま放置したのであるが、これは安全上極めて危険な状態を作出したものである。また、被告天野は全員に作業日報を当日記入するよう徹底しており、記入しなかった従業員については反省書の提出を受けたこともある。作業長は毎日作業日報の記載に基づいて製品毎に小日程管理を行っているから、作業日報は当日記載するべきであり、当日記載しないのであれば作業日報をつける意味はない。

(三) 同(三)の事実は否認する。

(四) 同(四)記載の事実のうち、同年五月一一日原告がスポット熔接機を使用した際、所定のチェックシートに記載しなかったので被告天野が注意したこと、これに対し原告が素直に聞く態度を見せなかったので、被告天野が原告に、「私がやった仕事で、もし事故が起こった場合は、私が全責任を負います。」との文書を書いて提出するよう求めたこと、原告がこれを拒絶したこと、翌一二日前日のチェックシート不記入の件について再度被告天野が原告に注意し、反省書を提出させたことは認め、その余の事実は否認する。チェックシートは品質を管理し、クレームに備えるためどのような条件で誰がいつ熔接したのかを記録するものであり、この記載がないと顧客からの品質上の問い合わせやクレームに対応できないので、再三にわたり作業長がチェックシートの記入を励行するよう指示しており、原告の主張する日の朝礼においてのみ指示したわけではない。

(五) 同(五)記載の事実のうち、原告が同月一二日スポット熔接機を使用した後、後方にある三本のバルブのうち中央のバルブを閉めたため、同機が過熱して故障したこと、右バルブには原告主張のような表示がなされていたこと、このことについて同月一四日、被告天野が原告に対し二度注意をし、原告主張の内容の反省書を提出させたことは認め、その余は否認する。スポット熔接機の三本のバルブの取り扱いについては原告に対し二度にわたり説明している。

(六) 同(六)記載の事実のうち、原告が同月一八日ボール盤のドリルで鉄板の穴あけ作業をしている際、回転中のドリルの下に手を入れるという不安全行為をしたこと、同月二二日被告天野がこのことについて原告に注意し、原告主張の内容の反省書を提出させたことは認め、その余の事実は否認する。原告の不安全行為が五月一八日で、被告天野がこれを注意したのが同月二二日になったのは、被告天野が同月一七日から二一日まで出張していたからであり、古沢作業長は原告の不安全行為を看過できず、出張から戻った被告天野に報告したものである。ボール盤の取り扱いについては、回転中のドリルに手を近付けない、他の作業を行うときは必ずドリルを停止させるという二点は基本であり、これを遵守しないと作業衣の袖口をドリルに巻き込まれるなどして重大な災害につながるおそれがある。このため右二点の遵守を製缶課においても徹底していた。従って、これに反する原告の不安全行為について上長が叱責するのは当然である。

(七) 同(七)記載の事実は否認する。

(八) 同(八)記載の事実のうち、原告が同年六月一〇日午後の一服の際、居眠りをしていたとして、翌一一日午前八時三〇分頃から昼休み時間を挟んで午後一時二〇分頃までの間、被告天野が原告に対し注意を与えたこと、原告主張の内容の反省書の提出を受けたことは認め、その余の事実は否認する。原告は被告天野から注意を受けている間、殆ど沈黙しあるいは無意味に笑うなどしていたもので、そのため、注意の時間が長くなったのである。また、一服はその時間も決まっておらず、制度化されたものではなく、仕事の区切りがついたところで、次の段取り等を考えながら所定の場所で一息入れることを指すもので、広義の仕事に含まれるものである。従って、作業能率、職場規律保持の観点から、一服の際居眠りをしてはならないのは当然であるところ、原告は単に目をつぶっていたのではなく、首を垂れて眠っていたもので、見苦しいだけではなく職場の志気に水を差す行為であり、被告天野が注意するのは当然のことである。

(九) 同(九)記載の事実のうち、一服のための休憩場所にあった椅子を一時撤去したこと、原告が同年六月二二日午前の一服の際、バンコの上に座って休憩していたので、被告天野が原告に対し立って休憩を取るよう注意したこと、翌二三日午前の一服の際、原告は再びバンコに座って休んでいたため被告天野が再度注意をしたこと、原告は同日午後の一服の際にもバンコの上に座って休憩を取ったため、被告天野が厳しく注意を与えたが、これに対して原告が午前一〇時と午後三時には当然一服することができ、これが休憩時間に当たると主張して譲らなかったため、その旨の内容の信念書の提出を受けたこと、一週間程度で休憩場所にあった椅子を戻したことの各事実は認め、その余の事実は否認する。椅子を撤去したのは、原告が居眠りをするのを防止し、職場の勤務規律を維持するためである。また、椅子を戻したのは、撤去して数日後他の従業員から、今後節度のある態度を取るし原告にも注意をするので椅子を戻してもらいたい旨の要望が出されたためである。椅子に座って居眠りをしたり、バンコに座って一服するものは原告のほかにはいない。

(一〇) 同(一〇)記載の事実のうち、原告が同月二九日有給休暇を取ったこと、翌三〇日午前一〇時頃から午後〇時五分頃までの間被告天野が原告を呼び、同月二三日の作業日報に作業時間八時間と記入したのは誤りであることを指摘して原告に注意を与え、原告主張の内容の反省書の提出を受けたことは認め、その余の事実は否認する。注意の時間が長くなったのは、原告が作業日報には実作業時間のみを記入するのでなければ意味を為さないとの被告天野の説明を容易に理解しなかったためである。

(一一) 同(一一)記載の事実のうち、原告が従来年次有給休暇を取得する際に原告主張の方法を取っていたこと、同月二九日原告が年次有給休暇を取るため府中工場製缶課事務所に電話をしたこと、偶然右電話に被告天野がでたこと、翌三〇日午後四時頃被告天野が原告を呼び、前日の原告の電話のかけかたについて注意をしたこと、これに対して原告が反抗的な態度を示したため被告天野は反省書の提出を求めたが、原告はこれに応じなかったこと、原告が同年七月一日から三日間年次有給休暇を取ったこと、同月三日被告天野が見舞に行ったこと、同月六日被告天野は再度原告を呼び、六月二九日の電話連絡の件について注意をしたが、原告がこれを素直に聞かなかったこと、翌七日被告天野は更に原告に対し右電話連絡の件について注意をしたが、原告は頑強に反抗して反省の態度を示さず、同月八日にも同様の注意をしたが、この間、同月七日に被告天野が注意している途中で原告が居眠りをしたためこの点についても厳しくとがめ、原告主張の内容の始末書(反省書)二通の提出を受けたことは認め、その余の事実は否認する。年次有給休暇を取る際には、仕事上の引き継ぎ等もあるので、必ず直属の上司に直接連絡を取るよう日ごろから指示していたにも拘わらず、原告は右電話にでた被告天野に対して、同事務所の書記を呼んでくれるよう頼んだのであって、上長に連絡を取ろうとする様子はなく、被告天野はこのような原告の姿勢を改めさせるため注意したものである。

(一二) 同(一二)記載の事実のうち、同月八日原告が終業時間の一〇分前から仕事の片付けを始めたこと、このことについて翌九日午前のミーティングの際被告天野が原告に対し注意したところ、原告がこれに反論したこと、同日午前八時三〇分頃被告天野が原告を呼び、原告が六月一五日図面の寸法チェックをしなかったことにつき注意をして、原告主張の内容の反省書の提出を受けたこと、これに引き続き終業時間前に片付けを始めたことについて原告の行為の検証も含めて注意をしたこと、その途中原告が席を立ちそのまま戻らなかったこと、被告天野は古沢作業長と共に様子を見にゆき、原告に対し職場に戻るよう指示したところ、原告が休暇を取りたい旨述べたこと、原告がその後約三〇分間工場内を駆け廻り、作業衣のまま工場北門から出ようとして警備員に制止されたこと、そのため原告が再度製缶課事務室に行き、同課課長から外出証の交付を受けたこと、原告が都立府中病院で原告主張の内容の診断を受けたことは認め、その余の事実は否認する。作業長は日頃から全員に対し終業時間まで仕事をするよう指示していた。また、六月一五日の件については、ある製品の製造後、現物と図面を照合して寸法があっていれば、図面に青色のペンで色を塗る方法でチェックすることになっていたのに、原告はこれをせず、寸法と加工場所が図面と違う製品を作った。次の組立工程でこの誤りが発見され、製品は再製作となったため、被告東芝は八八四三円の損害を被った。

3(一)  同3(一)(二)記載の事実は認める。

(二)  同3(三)記載の事実のうち、原告が昭和五六年七月九日に早退したこと、同月一〇日から二五日までの出勤日のうち一二日間欠勤したこと、被告天野が原告の上司として原告の勤務不良、安全意識の欠如等につき同年四月一〇日以降再三叱責しまたは注意を与え、時には反省書や始末書を徴求したこと、原告が同年七月一〇日心因反応と診断され休養加療したことの各事実は認め、その余の事実は否認する。被告天野の原告に対する叱責及び注意等の行為と原告の前記症状、早退及び欠勤との間には相当因果関係がない。

4(一)  請求原因4(被告らの不法行為責任)(一)及び(二)前段の主張は争う。

(二)  同(二)後段記載の事実のうち、昭和五四年四月の東京都府中市市議会議員選挙に、被告東芝の労働組合執行委員及び被告東芝の従業員が立候補したこと、一部の従業員により「労働者の声」と題するビラが配布されたこと、右従業員について昭和五四年四月の昇給の際、マイナス査定がされたことは認め、前記ビラ配布に至った動機、原告が右ビラ作成に参加するに至った経緯については知らない。その余の事実は否認する。ビラを配布した従業員と他の従業員との関係が険悪化した様子は窺えたが、これに被告東芝が関与したことはないし、原告主張の社内行事は有志が自主参加で行うもので、被告東芝が参加を強制する行事ではない。人事考課についても、入社後数年間は余り差を設けない運用になっていたため全員が標準の査定を受けていただけで、原告の主張するビラを配布した従業員は業務上の実績・態度が不良であったから人事考課において差をつけはじめる入社五年目にあたる昭和五四年四月の昇給の際にはこれを評価してマイナスの査定になったものである。被告天野の原告に対する叱責や反省書等の徴収は、原告の職場規律を乱す行為や不安全行為に対する当然の対応であって、原告のビラ配布行為を知ったために為されたものではない。

(三)  同5(損害)の主張は争う。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一  当事者等

請求原因1(当事者)、同3(一)(原告の賃金とその支給方法)、同3(二)(賃金の未払分)記載の事実及び同3(三)記載の事実のうち、原告が昭和五六年七月一〇日、心因反応と診断され休養加療するに至ったことは当事者間に争いがない。

二  事案の経過

当事者間に争いのない事実並びに〈証拠〉によると以下の事実が認められ、これに反する原告本人尋問(第一及び第二回)の結果は、前掲各証拠に照らし、採用しない。

1  原告は昭和五〇年三月高校卒業後、同年四月被告東芝に入社して府中工場に配属され、三箇月の試用期間の後、同年七月府中工場内の職業訓練校の板金科に入った。昭和五〇年に入社した従業員で府中工場の板金科に配属されたのは原告のみであったため、原告は昭和五一年の技能五輪の曲げ板金部門の出場選手となることとなり、当時府中工場の材料加工部製缶課第四ラインの製造長であり、技能五輪の曲げ板金部門の選手の指導員でもあった被告天野ほか二名の指導員のもとで、右製缶課において昭和五〇年七月から訓練を始めた。昭和五一年三月までは職業訓練校の授業と並行して訓練を行い、同年四月製缶課に正式に配属になった後は、専ら技能五輪の訓練のみを行った。原告は昭和五一年度と翌五二年度の技能五輪に出場し、昭和五二年度には全国大会三位の成績を収めた。

技能五輪終了後の昭和五二年五月から、原告は製缶課において実際の作業をすることになったが、体力的に製缶作業は難しいとの被告らの考慮に基づき、原告は、製缶課の中では比較的力業の少い第四ラインの田中作業長の下で導体加工部門の仕事に従事することとなった。その頃原告は、両親を亡くしたため預けられて育てられた郷里の寺の住職から、跡をついで貰いたいと頼まれ、被告東芝をやめて郷里に戻るか否か悩んでおり、被告天野にその旨相談したところ、被告天野から被告東芝に残って仕事をするよう説得され、結局被告東芝に残ることにした。被告東芝は原告を、昭和五三年一月二五日から二月四日までの間、技能五輪の成績や、被告天野の推薦を考慮して、グアム・サイパン洋上研修に参加させた。その際、製缶課においては課長以下同僚が原告に当時の月給の二か月分程度にのぼる餞別を贈った。

2  原告は昭和五三年三月から社外の読書サークルに週一回参加するようになり、そのサークルヘの参加を新聞紙上で呼びかけたことから、右サークルに参加していることが被告天野の知るところとなり、被告天野は、原告が社内の他の従業員に溶け込んでいるように見えなかったこともあって、社外のサークルよりも、職場の仲間とうまくやるためにはむしろ社内のサークルに参加した方がよい旨注意したが、原告は考えておきますと答え、右サークル活動を継続した。

昭和五四年四月、被告東芝府中工場の従業員の一部が「労働者の声」と題するビラを同工場の門前で配布し始めたが、原告はこのビラを読んでその主張に共鳴し、ビラの作成者に連絡をとり、同年一二月頃からそのグループに参加するようになった。他方、原告は、職場のレクリエーション行事等にはあまり参加せず、製缶課の三〇歳以下の従業員で構成される職場の親睦団体である一三夜会にも一旦は参加したが、同会が会員に慶弔があった際には見舞い金等を贈るなどし、職場の有資格者は全員が加入しているにも拘わらず、昭和五五年頃行事等にあまり参加しないため会費がもったいないと考えて脱退した。その後、原告は前記サークル活動等のため次第に残業をしなくなり、それまで月に三〇ないし四〇時間していた残業を、月に一〇時間程度まで減らした。右残業時間は、仕事が忙しいときには、他の従業員が月平均四〇時間程度の残業をしていることに比べると極めて短いものであったため、昭和五三年一二月被告天野が原告に対し、納期の関係で仕事が忙しく、他の者が残業しているのであるから、もっと残業するよう求めたところ、原告は、残業は自分のできる範囲内ですればよい、月に一〇時間程度の残業ではいけないというなら残業はしたくないと述べたので、被告天野は、原告をあてにして残業計画を組むことを断念し、もう残業はしなくてもよいと述べたため、その後原告はほとんど残業をしなくなった。

4  昭和五四年四月、被告天野は車両制御装置組立課の製造長となって製缶課から転出し、後任の第四ラインの製造長は武藤竹示となった。原告は第四ラインの田中登志夫作業長の下で配電盤のフレーム作りの下作り作業を行っていたが、昭和五五年四月から製缶課の課長となった伊藤周次郎は、田中作業長から原告の仕事の能率が悪いことを訴えられたことや、原告が職場に溶け込んでいないように感じられたことから、原告の指導のため、原告を田口製造長が統括する第三ラインの川辺作業長のグループに移した。同作業長のグループは特別高圧盤フレームの製缶組立作業を行うグループで、原告は組立作業のうち先手として、材料運び等の補助的作業を主に行ったが、同グループにおいても、原告の勤務態度について、仕事が遅く、共同作業が円滑に進まないといった指摘がなされ、その勤務振りに改善の様子は見られなかった。伊藤製缶課長は原告の指導に苦慮していたが、被告天野が昭和五六年四月再び製缶課第四ラインの製造長となったことから、被告天野が技能五輪において原告の指導をした関係上特別の信頼関係があるのではないかと考え、被告天野にこれまでの状況を説明して原告の指導を依頼し、原告を第四ラインの古沢清一作業長のグループに移した。同グループにおいて原告は共同作業の補助的な仕事を行っていたが、共同作業者との折り合いが悪く、次第に単独でできる作業を当てられて行うようになった。

5  昭和五六年四月三日、原告は古沢作業長の指示により、同僚の斎賢一と共にフレームに鉄板のカバーを熔接する作業を行うことになった。その際、原告がこのような作業を行うのが初めてであったことから、斎は鉄板をフレームにハンドバイス等を使用して固定し、ハンドシールドで顔面を保護して実際に熔接して見せ、その後実際に原告が作業をするのを確認してから別の作業に移った。原告は一人で熔接作業を行っていたが、ハンドバイスやハンドシールドを使用せず、左手で対象物を押さえ、目をつぶって熔接していたため、火花が左手の手袋の中に入り、火傷を負った。このことにつき、被告天野は、斎が原告に対して作業の手順を具体的に指示したことを確認したうえ、右指示に従わなかった原告に対して反省書の提出を求めた。原告もこれに応じて、標準作業・安全作業を指示されていながらこれを行わなかったことを認め、文面としては、被告天野の指示どおりの内容の反省書を作成して提出した。

6  原告は、昭和五六年四月九日、前記「労働者の声」を作成していた仲間らが発行した同月五日付けの「働く者の新聞」と題するビラを、就業時間中に封筒に入れて職場の同僚一名に交付した。これを右従業員から聞いて知った被告天野は翌一〇日午前一〇時頃から午前一一時頃までの間、原告のこのような行為は就業規則や労働協約に違反するとして原告に注意を与え、始末書ないし反省書の提出を求めた。このやりとりの際原告は、被告天野が自分に隠していることがあるだろうと言ったのに対し、隠すほど物は持っていませんと答えて、明らかに被告天野の質問の趣旨からはずれた返答をするなどし、被告天野の注意に対して真面目に対応しているとは言い難い態度をとった。また、被告天野が反省書の作成を求めたのに対し、原告は反省書はどのように書くのかと被告天野に尋ねたので、被告天野はその文案を作成して原告に示したが、原告は一日考えさせて下さいと述べてこれを作成しなかった。その後、被告天野が席を離れた間に原告は右文案を仲間に見せたいと考えてこれを書き写してポケットにしまった。これを見ていた古沢作業長が戻ってきた被告天野にこれを告げたため、被告天野は原告の書き写したものを渡すよう求め、これに抵抗する原告との間でもみ合いとなり、被告天野は古沢作業長と共に原告から原告が書き写した文案を取り上げた。原告は引き続きその場で被告天野が書いた文案をつかみ取ったが、これも被告天野と古沢作業長に取り返された。このようなやり取りがあったが、原告は結局反省書を作成しなかった。ところが反省書を作成させなかったことについて、被告天野は他の従業員から批判的な意見を述べられたため、他の従業員に対する指導の点からも、今後反省書や始末書の作成を要求した場合には必ず作成させるようにしようと考えるに至った。

7  被告天野は同年五月六日、原告がグラインダー及び電気熔接機の電源を入れたまま所定の場所に収納せずに退社したのを目撃し、翌七日午前八時一〇分頃原告を呼び、これらのことについて注意したところ、原告は、熔接機の電源のスイッチは切ったが、残業する人が使うと思ったので収納しなかったと述べたため、被告天野は電源が入ったままであったことは他の従業員も確認している旨述べた。これに対して原告が謝罪したため、被告天野は原告に、既に始まっていた作業長主催のミーティングに出席するよう指示した。その後午前九時三〇分頃、被告天野は再度原告を呼び出し、前日作業日報を記載しないまま退社したことを指摘して、始末書を書くよう求めた。これに対して原告は、どのように書けばよいのか尋ねたため、被告天野がその内容を指示し、原告は、同日午前九時五五分頃、電気熔接機の電源を切らず、エアーグラインダーと共にいずれも収納しなかったこと及び作業日報を記載しなかったことをいずれも認め、これについて反省する旨の反省書をそれぞれ作成提出した。

8  製缶課においては、スポット熔接機を使用して熔接した場合には熔接面が外から見えず、確実に熔接されているか否かを試験する手段がないことから、品質の維持とクレームに対する対応のためテストピースで熔接して、その強度等熔接の条件をチェックシートに記載することになっていた。昭和五六年五月一一日午後三時五〇分頃、被告天野は原告を呼び、原告がスポット熔接機を使用した際、前記のチェックシートに記載しなかったことについて注意した。これに対して、原告は、問題とされた熔接作業は他の従業員が指示したもので、スポット熔接機の使用方法等については教えられたが、チェックシートに記載することは指示されなかったこと、その前の週に古沢作業長が朝礼においてチェックシートの記載を励行するよう指示した際には、原告は被告天野に呼ばれて注意を受けていたため古沢の指示を聞いていなかったこと等を指摘して反論した。そこで、被告天野は、チェックシートの記載がないと熔接条件を確認することができず、納入先からのクレームに対して適切な処理ができないこと等を指摘してチェックシートの重要性を説明し、原告に対して、「私のやった仕事で、もし事故が起こった場合には、私が全責任を負います。」との文書を作成して提出するよう求めた。原告はこれに対しても、その必要がないと考えてこれを拒絶し、終業時間の午後五時になったため退社したが、翌一二日、被告天野が原告に対し、再度チェックシートに記載しなかったことにつき反省を求めたところ、原告は反省している旨述べたため、被告天野は、再度反省書の提出を求め、内容を指示して原告に反省書を提出させた。

9  同月一二日、原告はスポット熔接機を使用した後、同機の冷却装置の冷却水循環用の三本のバルブのうち両側の二本にはさわるなと書いた紙が貼られているが、中央のバルブには何の指示もなかったところから中央のバルブを閉めてしまったため、翌日他の従業員がこれを使用した際、冷却水が循環せず、スポット熔接機が過熱して故障してしまった。このことについて、被告天野は、同月一四日午前八時四五分頃、原告を呼んで叱責したところ、原告が謝罪したため、これを何等かの文書にすることを示唆して、その場は原告を現場に戻らせた。同日午後二時五〇分頃、被告天野は再度原告を呼び、右の件について再度その責任を追及した。これに対して原告は反省書を作成する旨答え、同日午後三時四八分頃、スポット熔接機を故障させたこと、今後注意することを内容とする反省書を作成した。これを見た被告天野は、機械が故障したため、かなりの額の損害が生じていることを考慮して、「何卒寛大なる御処置をお願いします。」との文言を付加するよう要求したところ、原告は「なにとぞおんびんにすませてくださいますようお願いします。」と書き加えて被告天野に提出した。

10  原告は、同月一八日、ボール盤で鉄板に皿ネジ穴をあける作業中、穴のあき具合を確認するため皿ネジを入れる際にドリルを停止せず、回転中のドリルの下に手を入れて皿ネジを出し入れして作業していたため、古沢作業長から注意された。しかし、原告がその後もこのような作業の仕方を改めなかったため、古沢作業長は同月二二日被告天野にその旨報告した。このことについて、被告天野は、同日午前九時四五分頃原告を呼び、不安全行為をしたとして叱責した。原告はこれに対して謝罪し、同日午前一〇時五分頃、安全上の注意を怠ったことを認め、今後注意する旨の反省書を作成したところ、被告天野がこのような不安全行為をした日時と以前にも注意を受けたことがある旨付加するよう要求したため、原告は六月一八日の日付と、括弧書きで(一度注意をうけたにもかかわらず再度注意をうける。)と書き加えて被告天野に提出した。

11  製缶課においては、一服という名称で午前一〇時頃と午後三時頃の二回、作業場の隅で、交替で喫煙したり、自動販売機で買ったジュースや牛乳等を飲んだりすることが行われていた。同年六月一〇日午後の一服の際、原告が居眠りしているのを目撃した被告天野は、翌一一日午前八時三〇分頃原告を呼び、原告が前日の午後の一服の際居眠りをしていたとして叱責したところ、原告が仕事に差し障りがなかったこと、一服の後すぐに仕事についたこと等を述べて反論した。このようなやりとりが午後〇時一〇分まで続いたのち、昼休みを経て午後一時から被告天野は再度原告を呼び出して注意したところ、原告は、午後一時一五分頃、居眠りをしたことを認め、今後注意する旨の反省書を作成した。原告は更に、被告天野から、原告が一服の際に居眠りをしてもいいと思う旨の発言をしたことを記載するよう要求されたため、「私は製造長に一一日に注意をうけました。その時、私はいねむりをしてもいいと思いますと答えました。いねむりをしてもいいじゃないですかと答えました。天野製造長は『おれはいねむりは許せない』といいました。」と書き加え、署名後、さらに「『私にコピーを一部くれますか』と私はいいました。」と記載して被告天野に提出した(なお、原告は当時居眠りをしていたことはなく、被告天野にこれを認める内容の反省書を求められたため、やむなくその旨記載したと主張するが、右反省書作成直後に作成された「労働現場から23号」(〈証拠〉)には、居眠りをしていたか否かについて被告天野との間で言い争った旨の記載も、実際には居眠りをしていないのにこれを認める内容の反省書を作成するに至った旨の記載もなく、単に、居眠りをしてもしなくても仕事には差し支えがないか否かについて論争していたように記載されているにすぎない。実際に居眠りをしていなかったとすれば、極めて重要と思われるこの点について全く記載がないのは不自然という外はない。その他の証拠によっても、実際に居眠りをしなかったとの原告の主張を認めるのは困難である。)。

12  伊藤製缶課長は昭和五五年四月着任した際、一服の際に皆がだらしない態度を取らないよう作業長に対して注意をし、同年一一月頃になって、一服をするための場所に置いてあった椅子を二脚として、一回に一服を取る人数を二人とし、時間も三分以内とするよう従業員に対して指示した。その後再び一服の取り方が乱れてきたため、第四ラインのうち同じ場所で一服をするグループである古沢作業長と山本作業長が相談し、古沢作業長のグループと山本作業長のグループが一服する場所について一時椅子を撤去することとし、被告天野の了解を得た上、同年六月二〇日朝のミーティングの際、古沢作業長が従業員に対して、椅子を撤去するので一服は立ってするよう指示し、実際に椅子を撤去した。ところが、原告は同月二二日午前一〇時頃の一服の際、バンコと呼ばれる角材を一服の場所に持ってきてこれに腰掛けて休んでいたため、これを見た被告天野は原告に対し、立って一服するように注意し、原告もこれを了承して、次からは座らないようにしますと答えた。しかし、翌二三日午前の一服の際、又もや、原告はボール盤作業に使用する切り粉をいれる鉄製の箱のうえにバンコを載せてこれに腰掛けて休んでいた。そこで、被告天野は原告を呼び、前日立って休むように指示したこと等を指摘して注意し、これに従えないのなら上司の指示命令に一切従えない旨文書にして提出するよう求めた。それにも拘わらず原告は、同日午後の一服の際にも同様にバンコの上に座っていた。これを見ていた古沢作業長が立って休むよう原告に注意したが、原告は、同人に対し、以前のように椅子を置いてくれればバンコに座らなくてもすむので、椅子を戻してほしいと述べて、古沢作業長の指示には従わなかった。その後古沢作業長から連絡を受けた被告天野は、原告を呼び、再度注意したが、原告は、一服は休憩時間であり、その過ごし方も自由であるとの考えを述べて反論した。これに対し被告天野は、一服は会社が親心で黙認してきたのに過ぎず、権利としての休憩時間ではないと述べ、両者間に意見の一致が見られず、同日午後四時五五分頃原告は退席した。同月二四日被告天野は年次有給休暇を取った。翌二五日、原告は以前と同様バンコの上に座って一服の時間を過ごしていたため、被告天野は同月二六日原告に対して注意をし、その都度注意をするのは面倒なので、バンコの上に座って休むのであればその旨の信念書を作成するよう求めた。これに対して原告は同日、同月二三日のやりとりについて原告が一〇時と三時の一服の時間は休憩時間であると述べたこと、被告天野は昼休みのほかは休憩時間はないと述べたことを記載した信念書を作成して被告天野に提出した。同月二六日、古沢作業長は、一服の際の椅子の有り難みがわかっただろうから、翌週からは椅子を元の場所に戻すが、節度を持って一服の時間を過ごすよう従業員に指示し、週明けの同月二九日から元の場所に椅子を戻した。

13  原告は同月二九日年次有給休暇を取ることにし、同日午前八時二〇分頃、府中工場に電話し交換台に製缶課事務所につないでもらい、偶然電話に出た被告天野から休暇の承諾を得た。翌三〇日、被告天野は隣の席で古沢作業長が作業日報を集計しているのを見ていた際、偶然原告が同月二三日の作業日報に被告天野と面談中であった時間についても作業時間として記載していることを発見し、同日午前一〇時頃原告を呼び、右作業日報の記載方法について、作業日報はコストダウンに使用するものであるため、実際の作業時間のみを記載すべきであることを指摘したところ、原告が被告天野と話している時間も仕事であり、これまでもそのように記載してきたと反論した。これに対して被告天野は、作業日報の意義を含めて原告のような記載方法が誤りであることを指摘し、原告に反省書の作成を求めた。当初これを拒否していた原告も、同日午前一一時四〇分頃作業日報を正しく記載しなかったことを認め、以後注意する旨の反省書を作成した。被告天野はこれに対し、作業日報の記載方法については作業長の指示命令違反であるからその旨明記するよう求め、同日午後〇時五分原告は署名の後に括弧書きでその旨書き加えて被告天野に提出した。

同日午後四時頃、被告天野は再度原告を呼び、原告が前日有給休暇を取るためにかけた電話について、原告が製缶課事務所にいる書記に電話をつないでくれるよう交換台に依頼し、書記から作業長もしくは製造長に伝言を依頼しようとしたことを咎め、被告天野か古沢作業長を電話口に呼び出し、直接その承諾を得るべきであると述べたところ、原告は同月二九日には実際には被告天野が電話に出て直接承諾を得たと述べて反論した。そして、始末書の作成を求める被告天野に対し、労働組合に相談したいと述べてこれを作成せず、同日午後四時五五分に退席して作業道具を片付けた後、労働組合に相談に行った。同組合では書記長が応対したが、始末書の作成の問題については関与しない旨の返事であった。

原告は同年七月一日から同月三日までの間いずれも頭痛を理由として年次有給休暇を取ったが、七月一日は午前八時五五分頃古沢作業長に電話で連絡を取り、翌二日については、午後六時一〇分頃になって製缶課課長に電話で連絡をしており、同月三日は被告天野の自宅に電話で連絡して承諾を得た。同日午後一時三〇分頃、被告天野は原告を見舞うため原告のアパートを訪れたが、原告は部屋の外に出て部屋に鍵をかけ、玄関の外で被告天野と応対した。被告天野は原告が元気そうであること、頭痛が以前の交通事故の後遺症ではないかなど尋ね、来週からは出勤するよう勧めて帰宅した。右休暇中、原告は前記「労働者の声」を作成していた仲間と相談し、同月六日月曜日から出勤したほうがよい旨助言され、出勤した場合には、反省書・始末書についてはその作成を拒否することなどの方針を決めた。

同月六日原告は出勤したが、同日午前九時頃から午前一一時二五分まで、午後二時三〇分から午後三時まで、午後四時一〇分から午後四時二〇分までの三回にわたり、被告天野に呼び出され、前記の電話のかけかたについて始末書か、被告天野を上司とは認めない旨の文書かいずれかを作成するよう求められた。しかし、前記の仲間との話し合いもあり、電話が製缶課の作業現場に直通になっていないこと等を述べていずれも拒否した。翌七日も午前九時二〇分から午後〇時一〇分まで、午後一時から午後一時二五分まで及び午後二時四五分から午後五時までの三回にわたり被告天野は原告を呼び、有給休暇を取る際には、書記から伝言してもらうのではなく、製造長もしくは作業長を電話口に呼出して直接その承諾を得るべきであるのに、六月二九日には原告は書記に伝言を依頼して済まそうとしたのであるから始末書を作成するよう求めたが、原告は交換台からは製缶課事務所にしかつながらないことを述べ、このような方法は以後改めるとは言ったものの始末書は作成しなかった。しかしながら、翌八日午前八時二〇分から午後〇時一〇分までと午後一時から午後一時四五分までの間被告天野が原告を呼び、重ねて、有給休暇の連絡方法について前日同様始末書の作成を求めたため、原告も有給休暇を取得する場合には上長に電話をするようにする旨を記載した反省書を作成することにした。そして、被告天野が、この件について組合に相談に行ったが、書記長から関与しないと言われたこと及び、被告天野を上長と認めることを付加することのほか文書の標題を始末書とすることを求めたので、結局標題は始末書(反省書)とし、内容も被告天野の求めた点を付加した書面を作成した。また、同時に、被告天野から求められて、原告は前日午後三時五〇分頃、被告天野との面談中に居眠りをしたことについて、今後このようなことのないよう注意する旨の反省書も作成することにしたが、これについても被告天野の求めに応じて標題を始末書(反省書)とし、万一、居眠りをするようなことがあった場合には被告天野の判断に任せる旨の内容を付加した。

14  同月八日、原告は終業時間の一〇分以上も前に作業をやめ、後片付けを始めた。これを見咎めた被告天野は、翌九日午前八時一五分頃原告を呼び、前日仕事を終えるのが早すぎたと原告を咎め、作業日報の記載や掃除などの後片付けのためには五分間程度で充分ではないか、仕事をする気があるのかと質したところ、原告は後片付けには一〇分間程度を要する旨反論したが、古沢作業長が被告天野を呼びにきたため、午前八時二〇分頃、話を中断した。古沢作業長は被告天野に、原告が同年六月一五日に作成したフレームが図面どおり作成されておらず、このことが次の組立過程において発見された旨報告した。被告天野は、従業員は図面と実際に作成した製品とのチェックを行うよう決められているにも拘らず原告がこれを行わなかったため、この間違いが生じたものと考え、同日午前八時三五分頃再度原告を呼び、原告が同年六月一五日に製造した製品についてその寸法をチェックしなかったことを咎め、反省書の提出を求めたところ、原告もこれを認め、反省書を作成して提出した(なお、原告は図面の寸法チェックを忘れただけで、実際の製品と図面とは同じ寸法でできあがっていた旨主張する。たしかにこのとき作成された反省書である〈証拠〉には不良品を作ったことの記載がない。しかし、被告天野本人尋問の結果によれば、通常図面と異なる製品を作らないようにする手段として、寸法のチェックを行い、数字に色を塗って図面の寸法どおり製品が作られているかを確認する作業が行われていることが認められるから、右の作業がなされていないことは、製品が正確に作られていないことを窺わせるものである。また、〈証拠〉には損害額の記載があること等を考慮すると、実際に製品が次の工程に行った際、図面どおりでなかったため使用することができず、そのことから図面の寸法のチェックをしていないことが判明したものと確認される。)。被告天野は引き続き、原告が前日午後四時五〇分頃から後片付けを始めたことについて、原告に対し、前日一〇分間に行ったことを再現して実測してみようと述べて、原告が前日記載した作業日報については被告天野が自分で書き写してその時間を計測し、その他の後片付けについては原告にこれを再現してみるよう求めた。これに対して、原告は、忘れたと述べてこれを行わず、便所に行くと言って製缶課の建物を出た後、弁護士に連絡しようとして、製缶課の職場から約二〇〇メートル離れている電話ボックスに向かった。これに気付いた被告天野と古沢作業長、製缶課の従業員である荻野は、原告を連れもどすため原告を追いかけ、被告天野は原告に職場に戻るよう指示して、原告の腕をとって引き戻そうとしたが、原告はこれに抵抗し、被告天野に同日休暇を取りたい旨述べた。これに対して、被告天野は課長の許可を取って帰宅するよう指示し、古沢作業長に対し伊藤課長に原告の様子がおかしい旨連絡するよう指示した。その後、原告は前記「労働者の声」を作成していたグループの一人である松野に会うため絶縁課に行ったが、同人がいなかったため、塗装課に行き同じくグループの成員である正井と会って、経過を話して弁護士への連絡を依頼した。原告はさらに同じグループの川名に会うため同人の職場に行ったが不在で会えず、再び正井のところに戻り、帰宅するため、製缶課の職場に戻って荷物を持つと作業着のまま北門に向かった。しかし、原告は外出許可証を持っていなかったため、守衛に止められ、再度製缶課の事務所に戻り、伊藤製缶課長に外出許可証を求めた。同課長は府中工場内の診療所に行くことを提案したが、原告はこれを断り、結局外出許可証をもらって府中工場北門近くの医院に行った。原告は同医院から救急車で都立府中病院に運ばれ、整形外科と精神科の医師の診察を受けた。同日、原告は心因反応との診断を受け、その後同月二五日までの間欠勤した。また、同月一〇日原告は国分寺診療所において診察を受け、右上腕内側部に六・八センチメートル×七・〇センチメートルの皮下出血がある旨の診断を受けた。

三  被告天野の行為の違法性について

1  原告は、被告天野が昭和五六年四月一〇日以降、ささいなことで原告を叱責し、始末書、反省書等の作成を求めたことが違法である旨主張するので、まずこの点について検討する。

(一)  〈証拠〉によると以下の事実が認められる。

府中工場重電事業部材料加工部製缶課は第一ないし第四ライン(昭和五五年一〇月以降は第二ないし第四ライン)に分かれており、各ラインを一人の製造長が統括している。製造長の下に数名の作業長がおり、作業長はそれぞれ数名の作業員を部下として持ち、作業長毎に異なる作業をしている。製造長は日々の工程を管理する責任があり、その一方で作業員の教育指導管理監督を行う権限を持っている。製造長による作業員の指導教育の方法については特に決められた基準はなく、製造長の上司である課長も一般的には関与しないことから、それぞれの製造長が独自の指導方針を持って指導にあたることになる。各作業員に不安全行為や不始末があった場合、製造長が指導にあたるのは勿論であるが、その際、指導監督の方法として、反省書や始末書といった文書の作成を求めることもあり、その場合にどの程度の不始末であれば反省書を作成させるのか、反省書等の宛て先を誰にするか等の判断は製造長が行うことになっている。課長宛に反省書等を作成させた場合には製造長は課長にこれを届けるが、製造長宛であれば製造長が特に課長に報告しない限りは課長がこれを見ることはない。また、作成された反省書等の文書のその後の取り扱いについても特に取り決めはなく、被告天野は一定の期間後廃棄することにしていた。始末書などを直接人事考課の資料とするような制度にはなっていない。

右認定のとおり、被告東芝府中工場の製缶課の製造長には、その所属の従業員を指導し監督する権限があるのであるから、その指導監督のため、必要に応じて従業員を叱責したりすることは勿論、時に応じて始末書等の作成を求めることも、それが人事考課の資料となるものではなく、また、前掲証人伊藤の証言によれば、その作成提出は業務命令の対象ともなるものではないことが認められるから、必ずしも個人の意思の自由とも抵触を来たすものではないというべく、それ自体が違法性を有するものではない。しかしながら、製造長の行為が右権限の範囲を逸脱したり合理性がないなど、裁量権の濫用にわたる場合は、そのような行為が違法性を有するものと解すべきである。また、製造長は部下である従業員に対し、個々の従業員の個性、能力等に応じて、適切な指導監督を行うべきであるから、ある従業員に対して他の従業員と別異に取り扱うことがあることは当然のことである。しかし、別異に取り扱うことが合理性のない場合には、別異の取り扱いは違法性をもつものと解される。

(二)  そこで、被告天野が原告を叱責したり、反省書等の作成を求めるなどの行為が右裁量権の濫用といいうるか否かの点について個々に検討する。

〈証拠〉によれば、被告天野は第四ライン配属の従業員の指導監督の方針として、従業員に不安全行為や職場規律違反行為があった場合、決められたルールを守らず職場に迷惑をかけた場合には、注意した上、反省書、始末書等の作成を求めることにしていたことが認められる。

(1) 原告が、職場の同僚にビラを交付したことについては、〈証拠〉によれば、就業時間中にビラを交付する行為が就業規則や労働協約に違反していることが認められるのであるから、原告のビラ交付行為を被告天野が咎め、注意することは当然であり、このことについて原告に対し反省書の作成を求めたことは、製造長の裁量の範囲内の行為というべきである。

(2) 原告が、エアーグラインダー等の機械を収納せずに退社したことについては、〈証拠〉によれば、当日、原告は他の二人の従業員と個別に同じ内容の仕事をしており、原告だけが定時に退社したこと、その際原告は、他の二人にこれらの機械を使うかどうか確認しなかったことが認められる。原告はその本人尋問(第一回)において、本件当時、被告東芝の府中工場製缶課において、定時に退社する者はその使用していた機械類を片付けずにそのまま退社してもよいという職場慣行があったと述べているが、他の従業員が必要であるか否かを確認することもなく、そのまま放置して退社してもよいという職場慣行は、その機械を残業者のだれも必要としない場合、誰が収納するかの点を考えてみれば極めて不合理であることは明らかであり、他に右のような職場慣行を認めるに足りる証拠はない。従って、原告は退社の際には、使用していたエアーグラインダー等を収納してから退社すべきであったというべきである。しかしながら原告はこれを怠り、剰え、電気熔接機は電源を切らない危険な状態のまま放置して退社したのであるから、被告天野が注意したのは当然の措置と言うべきであり、これについて反省書の作成を求めたことは、製造長の裁量の範囲内の行為というべきである。

(3) 〈証拠〉によれば、作業日報は実際にその日に作業した時間を製品の製造番号毎に記録するものであり、納期との関係で定められた指定時間に照らして実際の作業の進行状況を管理し、また、予定通りのコストで完成するかをはかるのに用いられ、そのため、作業者は作業長に当日提出し、作業長は毎日これを集計して作業の進展状況を把握するために作成することが求められているものであるから、当日の作業についてはその日のうちに記載されるべきものであること、しかし、当日記載を忘れる従業員がないわけではなく、これについて反省書が作成された事例が過去にあったことが認められる。従って、原告が作業日報を記載せずに退社したことについて、被告天野が原告を叱責し、反省書の作成を求めたことは、通常の取り扱いであって当然のことである。

(4) スポット熔接機を使用する際は、熔接条件を記録することが必要であることは前示認定のとおりであり、〈証拠〉によれば、昭和五五年四月にスポット熔接の不良事故が発生したことを契機にして、作業長は作業員に対し、チェックシートに記載し、熔接後、熔接箇所が正確に熔接されていることを確認するようにとの指示を何度か朝礼等で行い、原告もこれを聞いたことがあること、スポット熔接機にはチェックシートに熔接条件を記載するようにとの注意を記載した書面が取り付けてあることが認められる。仮に原告が直前の朝礼の際、被告天野から注意を受けていたため、チェックシートに必ず記載せよとの作業長の指示を聞くことができなかったとしても、原告はチェックシートに記載すべきことを全く知らなかった訳ではなく、また、前記の事故の後でもあり、職場においてチェックシートへの記載に神経を使っていた時期でもあるから、これの忘失について被告天野が注意し反省書を徴したのは当然であるというべきである。

(5) スポット熔接機の中央のバルブを閉めたことにつき、〈証拠〉によれば、原告は五月一一日に初めて、スポット熔接機を使用したが、このときは他の従業員が原告が使用できるように準備し、原告は熔接作業を行っただけであったこと、古沢作業長がそのしまい方を教えたこと、翌一二日古沢作業長が原告に再度その使用方法を教えて原告が熔接作業を行い、作業の終了後中央のバルブを閉じたことが認められる。右のとおり原告は二度にわたりスポット熔接機の使用方法を教えてもらっており、作業終了時にどのようなことをするかについても、前日実際に見ているのである。ところが原告は、目の前でこれが行われておりながらその手順を全く覚えておらず、従って、終了時何をすればよいかわかっていなかった。更に原告は、誰かに確認することもなく、使用開始時に開ける作業をしていない中央のバルブを閉じたのである。右の一連の原告の態度は極めて不真面目と言わざるを得ない。確かに、両側バルブのみ指示があり、中央バルブに何の表示もないことは誤解を招くものであったと言えなくもないが、原告はその使用方法について既に説明を受けており、中央のバルブを閉めるようにとの指示を受けたことはないのであるから、原告がバルブをしめたことによって右熔接機が故障したことの責任は原告にあるというべきであり、これを機械の指示の仕方に転嫁することはできない。また、〈証拠〉によれば、スポット熔接機が故障したことにより、その修理費用として数十万円の損害が被告東芝に生じたことが認められ、この点について、被告天野が原告を叱責し反省書の提出を求めるのも当然のことと言わなければならない。

(6) 前示認定のとおり、原告はボール盤を使用した穴あけ作業の際、回転中のドリルの下に手を入れることを繰り返していたので、古沢作業長は原告に注意していたが、原告はこれを改めなかったのである。確かに、穴あけ作業においてどの程度穴があいたかを確認するために、皿ネジを穴にいれるたびごとにドリルを停止する方が、回転を止めずに確認するより時間も手間もかかることは明らかであるが、〈証拠〉によると、製缶課のボール盤は加工材料が鉄であるため出力が大きく、また、モーターが停止しない限りドリルが停止しない構造になっているので、回転中のドリルの下に手を入れることは、衣服の袖口等がまきこまれた場合にドリルが停止することがないため極めて危険な行為であることが認められ、他方、製缶課においてボール盤を使用した作業の際、回転中のドリルの下に手を入れることが一般的に行われていたとの原告の主張を認めるに足りる証拠はない。従って、被告天野が原告に注意するのは当然であり、口頭の注意では改められなかったため、被告天野が文書の提出を求めたのはやむを得ないことというべきである。

(7) 〈証拠〉によると製缶課においては午前と午後、作業の切りのいいときに五分ないし一〇分間程度、一服と称して作業から離れて身体を休めることが慣行として行われていたが、この時間は、作業日報の実作業時間の記載においてもこれを加えて計算することになっていること、一服の慣行は府中工場の総ての職場において行われていたわけではないこと、一服の時間には、たばこを吸ったりジュースを飲んだりする者もあるが、次の仕事の段取りを考えることにも使われていること、そのため、製缶課課長や製造長、作業長から繰り返し一服の際の過ごしかたについて、節度あるすごし方をすること、具体的な時間、すべきでないこと等を指示することがなされていたことが認められる。以上の事実によると、一服の時間は、休憩時間というよりむしろ作業時間の過ごし方の一形態というべきであり、休憩時間である昼休み等と異なり、一定の範囲内の行為が許されているに過ぎないと認められ、この時間に居眠りすることが許されているものと解することはできない。従って、一服の際居眠りをしていた原告を被告天野が叱責するのは製造長として当然のことである。

尤も〈証拠〉によれば、原告は、一服の時間の過ごし方について、製缶課の職場慣行やその趣旨をよく理解しておらず、居眠りをしてもよいと、考えていたことが認められるから、被告天野は、製造長として原告に対しその趣旨をよく理解させるよう努力を継続すべきであって、これがはじめての原告の居眠りであり、原告の理解不足から生じた行為である点を考慮すると、反省書まで作成させたことは多少行きすぎの感を免れないが、未だ裁量の範囲を逸脱した違法なものであると断ずることはできないものというべきである。

(8) 同月二〇日、古沢作業長らが被告天野の了解を得て一服の際の過ごしかたを考えさせるため立ったまま一服するよう所属の従業員に指示したうえ、椅子を撤去したが、原告は六月二二日以降、午前午後の一服の際、角材や箱を使用して座って過ごし、これを見咎めた古沢作業長や被告天野から叱責を受けると、次からは立って一服をしますと言いながら態度を改めなかったことは前認定のとおりである。〈証拠〉によると、原告以外の従業員は古沢の指示どおり立って一服していたことが認められるのであるから、原告が角材等に座っていることについて被告天野や古沢作業長が注意するのは当然である。この注意に対して、原告は次からは態度を改めると言いながら一服の際には必ず座っていたことは、被告天野や古沢作業長に対して極めて挑発的な態度と言わざるを得ず、これに対して被告天野や古沢作業長がその都度厳しく叱責したのも特に異常なことではない。これについて被告天野は同月二六日になって、その都度原告に注意するのは面倒なので、一服の際には座ってもいいと思いますとの信念書を作成するよう求めたことは前認定のとおりであり、原告の前記のような対応からすると、被告天野がこのような信念書の提出を求めたことは特に製造長としての裁量の範囲を逸脱するものではない。

(9) 前認定のとおり、作業日報は製品の製造番号を付して製造に費やした時間を計算し、製品のコストを計算するため等の目的で記載しているものであるから、このような作業日報の性格から考えると、原告が被告天野から叱責されている時間を作業時間と記載するべきでないことは明らかである。原告の主張によると、原告は同年四月以降、実際の作業時間だけでなく、注意を受けていた時間も含めて記載していたというのであるが、仮にそうであったとしても、それは原告が作業日報の意義を知らずに誤って記載し続け、これに作業長や製造長も気付かずにいた、または注意せずにいたというだけのことであって、原告の記載方法が容認される理由にはならない。また、原告はこのような説明を受けながら、被告天野から注意を受けている時間も作業時間であると主張したことは前認定のとおりであり、〈証拠〉によると、作業日報の記載方法についてはこれまでに何度もミーティング等の際に指導していたにも拘らず、原告がこのような態度に出たため、被告天野は、原告の作業日報に対する考えかたを正す必要もあって、これに対する反省書の作成を求めたものであることが認められる。従って、原告の作業日報の記載方法の誤りについて正した被告天野の行為は当然のことと言うべきである。

(10) 〈証拠〉によれば、原告は年次有給休暇を当日取得する場合製缶課事務所の書記に電話して、製造長か作業長に伝言を依頼する方法を従来取っていたことが認められ、〈証拠〉によれば、昭和五六年六月二九日も原告はそのようにし、さらに偶然電話にでた被告天野に対しても、製缶課事務所の書記を呼んでくれるよう依頼し、原告からの電話であることに気付いた被告天野に指摘されて、被告天野に休暇を取りたい旨告げたことが認められる。そして、〈証拠〉によれば、当日休暇をとる場合の電話のかけかたについて、被告天野は六月三〇日原告に対し、府中工場の交換台に対して、製缶課の被告天野または直属の作業長を名指して電話をかけ、被告天野か、作業長に直接承諾を得るべきであるから、以後、電話のかけかたを改めるよう指示したことが認められる。当日の仕事の段取り等もあり、直接上長に電話すべきであるとの被告天野の主張は一応納得しうるものである。原告は同日この点について被告天野から始末書の作成を求められたがこれを拒絶し、七月一日から三日まで休暇を取り、土曜、日曜を挟んで同月六日に出勤した後七月八日に始末書を作成するまで、断続的に被告天野から始末書の作成を求められていたことは、前認定のとおりである。しかし、〈証拠〉によると当日の有給休暇の取りかたについて、これまで原告は注意されたことがないことが認められ、原告も被告天野主張のような電話のかけかたをすべきことについて一応納得し、注意された後である七月一日から三日までについては、申告した時間の適切さに問題は残るにせよ、一応直接上司に電話していることは前認定のとおりであって、被告天野の注意に従い態度を改めていると言えるから、その後も三日間にわたりこの点について始末書の作成を求める必要があったのかは疑問の残るところである。確かに被告天野の注意と原告の反論はかみ合っていない点もあり、完全に被告天野の言わんとしていることを原告が理解したのかは定かではないし、上司として、一旦作成を求めた反省書等を不提出のまま放置することは他の従業員に対する指導の上で好ましくない影響のあることは理解し得るが、指導の性格上、個々の従業員の性格、状況等に応じて変化する柔軟な姿勢もまた必要である。この場合、原告は、被告天野の指示に従って、態度を改めたのであるから、三日間にわたり、執拗に始末書の作成を求めたのは行きすぎの感を免れず、製造長として従業員を指導する上での裁量の範囲を逸脱したものと言わざるを得ない。

(11) 七月九日原告が六月一五日の作業において図面のチェックをしなかったことについて、前認定によると、原告が図面と異なる製品を製作したため、組立の工程において右製品を使用することができなかったものであるが、このような過誤を無くすために図面の寸法をチェックすることが行われていることからすれば、これを怠って実際に使用できない製品を作ったことについて被告天野が原告を叱責するのは当然であって、このことについて反省書の作成を求めたことは当然というべきである。

(12) 七月八日午後五時一〇分前頃から後片付けを始めたことについて、〈証拠〉によると、古沢作業長は原告の作業打ち切りが早すぎることについて何度か原告に注意していたのに態度が改まらなかったため、被告天野にその旨を報告していたことが認められ、この報告を受けて、被告天野は原告に対して直接には七月八日のことについて注意をしたものである。他の従業員に比べて特に後片付けを始める時間が早いのは他の従業員に対して良い影響を与えるとは思われない。しかしながら、被告天野が、後片付けとして原告が行ったことを再現してその時間を計ろうとし、作業日報については原告が再現しないため、被告天野が自ら書き写し、その後原告をその作業台に連れていって、前日の後片付けを再現するよう求めたのは、行きすぎの感を免れず、部下を指導すべき製造長としての裁量の範囲を逸脱したものと言わざるを得ない。

(三)  以上のとおりであるから、被告天野が原告に対して注意したり、叱責したことはいずれも、被告天野がその所属の従業員を指導監督する上で必要な範囲内の行為であったというべきであり、これらの事項について反省書等を求めたことも、概ね裁量の範囲を逸脱するものとは言えない。ことに、労働者として、その安全や、機械の操作や、工程管理や、作業方法に関する原告の誤りを是正させるために反省書等を作成提出させるのは、適切な行為というべきである。しかしながら、渋る原告に対し、休暇をとる際の電話のかけ方の如き申告手続上の軽微な過誤について、執拗に反省書等を作成するよう求めたり、後片付けの行為を再現するよう求めた被告天野の行為は、同被告の一連の指導に対する原告の誠意の感じられない対応に誘引された苛立ちに因るものと解されるが、いささか感情に走りすぎた嫌いのあることは否めず、その心情には酌むべきものがあるものの、事柄が個人の意思の自由にかかわりを有することであるだけに、製造長としての従業員に対する指導監督権の行使としては、その裁量の範囲を逸脱し、違法性を帯びるに至るものと言わざるを得ない。

2  次に、原告は、昭和五六年四月九日、原告が「働く者の新聞」を同僚に交付したことから、「労働者の声」と題するビラを作っていたグループに原告が加わっていたことが、被告天野の知るところとなり、被告天野は原告のこのような活動を嫌悪して、前示のとおり、反省書等の提出を執拗に求めたり、原告が便所に行く際他の従業員に原告を監視させたり、同年五月二五日原告に対しどの便所を使用するかを指定したりするなどのいやがらせをし、また、原告が退職せざるを得なくなることを目的として、第四ラインの従業員に対して原告と話をしないよう指示したものであり、これが違法であると主張するので、この点について検討する。

(一)  前認定によると、原告が被告天野に求められて作成した反省書は、「働く者の新聞」を交付したことによるものが初めてではなく、それ以前に、第四ラインに異動して三日目にした不安全行為により、昭和五六年四月三日反省書を提出していることからも明らかなように、被告天野による反省書等の要求は右ビラの交付を契機としてなされたものではない。〈証拠〉によると、原告は昭和五六年三月までは反省書等を作成したことがないことが認められ、同年四月から七月九日までの間に一〇通の反省書等が提出されていることは前認定のとおりであるが、被告天野は従業員の指導監督を行う上で、自ら基準を決めて反省書等の作成を求めることにしており、反省書等の作成を求められたのが原告のみでないこと、被告天野の叱責や反省書等の要求は、大部分、相当の理由があり、二、三の場合を除いて原告についてだけ特に他の従業員と異なり些細なことを殊更とりあげて言い掛かりをつけたものとは言えないこともまた前認定のとおりである。

また、〈証拠〉によると、昭和五四年四月頃、被告東芝の一部の従業員が当時行われた府中市市議会議員選挙に対する被告東芝及び被告東芝の労働組合の姿勢及び被告東芝の労務政策に疑問を持ち、「労働者の声」と題するビラを府中工場の門前で配布しはじめたところ、原告はこのビラを読んでその主張に共鳴し、ビラの作成者である川名に連絡を取り、同年一二月頃にはこのグループに参加して活動するようになったこと、「労働者の声」の作成は一時中断していたが、昭和五六年四月頃労働組合の春闘に対する姿勢を批判する内容を「働く者の新聞」と改題したビラとして作成したことの各事実が認められるが、被告天野が原告のこのような活動を嫌悪して原告を特に叱責したり、反省書等の作成を求めようと意図したことを認めるに足りる証拠はない。

(二)  次に被告天野の指示により、昭和五六年五月一一日以降製缶課のうち第四ラインの従業員だけが原告と仕事以外の話をしなくなり、挨拶すら返すことがなくなったとの点について検討する。

原告は第四ラインにおいて特に親しい友人がいる訳ではなく、職場のレクリエーション行事等への参加状況が良いとはいえなかったし、職場の親睦団体で有資格者は全員が加入している一三夜会も会費が無駄であるとして脱退したことが示しているように、元々、職場の同僚との付き合いが良いということはなかったことは前認定のとおりである。従って、仮に、昭和五六年五月一一日以降、同僚が原告と話をしなくなったとしても、その原因は原告の右のような日常の態度に起因するものと推認され、被告天野が原告と話をしないよう第四ラインの従業員に指示したことを認めるに足りる証拠はない。原告本人尋問の結果中には、原告が同じ職場の同僚から、被告天野が原告とは話をしないようにと指示したとの旨聞いたとの供述部分があるが、これを原告に告知した者の氏名等については全く不明であって、これを信用することはできない。

(三)  また、原告は、四月九日に「働く者の新聞」を配布した後、原告が便所に行く際、被告天野が、必ず他の従業員に同行させて原告を監視させたと主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。

なお、〈証拠〉によれば、被告天野が原告に対し、製缶課北側の便所ではなく南側の便所を使用するよう指示したことが認められるが、〈証拠〉によれば、被告天野は作業の能率という観点から作業している場所から遠いほうの便所を殊更使用することを咎め、近い位置にある便所に行くよう指示したに止まるのであるから、このことが特に原告の行動を制約しようとしてなされたものでないことは明らかである。

(四)  以上のとおりであるから、被告天野が特に、原告の、前記「労働者の声」を作成していたグループの者たちと行っている活動を嫌悪して原告にいやがらせをしたり、原告を退職させようと意図していたとの事実を認めることはできない。

四  賃金請求について

原告が、昭和五六年七月九日心因反応と診断され、その後同月二五日までの間会社を欠勤し、休養加療していたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によると、原告が昭和五六年七月九日診察を受けた都立府中病院の医師は、原告の心因反応は会社内における人間関係が原因となっているものと判断したこと、同医師が心因反応のため休養加療を要すると診断したことにより、原告は七月一〇日から同月二五日までの間欠勤したこと(尤も、その間において、原告は、七月一二日付で「労働現場から」二九号を作成し、一〇丁に及ぶ同書面上には、原告の立場からする同月九日の一連の事実経過がかなり細部にわたり詳細に記述されている。)が認められる。また原告は昭和五六年七月一〇日右上腕内側に皮下出血のあった旨の診断を受けているが、これは、前日被告天野から職場に戻るよう言われた際に、同人や古沢作業長らとの間で口論となり、腕をつかんで引き戻されるなどした際に生じたものと推認するのが相当である。

そこで、以上認定判示したことを総合して、原告の心因反応の原因を検討すると、昭和五六年四月以来、原告の不安全行為や所定の方法で作業しなかったこと等に対して、被告天野や作業長から注意を受け、しばしば反省書等の作成を求められたことが原告の精神的負担となってこれが遠因となり、原告が心因反応と診断された当日の前日の作業終了時間が早すぎたことに対する叱責と、その前日まで続けられた有給休暇の取りかたについての執拗な追及及び反省書の要求が、直接的な原因となっているものと推認することができる。

そして、右の直接的原因となった叱責及び反省書の要求は、いずれも製造長としての裁量の範囲を逸脱する違法なものと認められることは前判示のとおりであり、右違法行為は、被告天野が被告東芝の社員として、その部下である原告の指導監督を行う上でなされたものであるからこれが原因となって惹き起こされた原告の欠勤は、被告東芝の責に帰すべき事由によるものと言うべきである。そうすると、原告は右の期間内の賃金請求権を失わないものと解することができるから、原告が被告東芝に対して、その早退及び欠勤を理由として支給されなかった賃金の支払いを求める請求は理由がある。

五  慰謝料請求について

前判示のとおり、原告の心因反応の原因は、被告天野の前記認定の違法行為にあると解されるから、被告天野及びその使用者である被告東芝は、これにより原告が被った精神的損害を賠償すべき義務がある。この場合、被告らの責任を考慮するに際しては、原告側の事情も斟酌すべきである。前認定のとおり、原告はしばしば、過った作業をしたり不安全行為を行うなど、労働者として仕事に対し真摯な態度で臨んでいるとは言い難いところがみられ、また、被告天野の叱責に対しても真面目な応対をしなかったり、殊更被告天野の言動を取り違えて応答するなどの不誠実な態度も見られ、このため、有給休暇のとり方や作業終了時間に対する被告天野の過度の叱責や執拗な追及を原告自らが招いた面もあることが否定できないことは上述したとおりである。

以上の事情を総合考慮すると、原告の被った精神的損害を慰謝するには、一五万円が相当と認められる。

六  結び

よって、原告の請求は、被告東芝に対して労働契約による賃金請求権に基づき五万五四九〇円及び内四万五一三五円に対する昭和五六年八月分の賃金の支払い日の翌日である昭和五六年八月二六日から、内一万〇三五五円に対する昭和五六年年末一時金の支払い日の翌日である同年一二月五日から、いずれも支払い済みまで商事法定利率の年六分の割合による遅延損害金の、被告東芝及び被告天野各自に対して不法行為による損害賠償請求権に基づき一五万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である被告東芝については昭和五七年一月三〇日から、被告天野については同月三一日からいずれも支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、それぞれ支払いを求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 落合 威 裁判官 稲葉耶季 裁判官 石栗正子)

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